最近VTuberの音楽を聴きすぎている、という自覚がある。
直近ではV以外にも、BAEにもハマりつつあるし。
そんな中、ふと思った。
ここまで音楽がカオス的に開放された時代が過去にあっただろうか、と。
プロだろうが素人だろうが、そんなものは障害にならず、とにかくその曲がリスナーの耳に届けさえすればヒットすることは難しくなくなった時代。とくにメディアミックス型の音楽では、歌い手のジャンルの境界はなくなったように思う。
そうやって、刺激的な音楽が耳に流れ込んでくる毎日。
確かにそれは楽しくて中毒的ハイになるほど気持ちのいいものなのだけど、ここまでくると、ふと我に返ったとき虚無感を感じることもある。
こんなに音楽を無秩序に受け取れる状態になってしまって、自分の感受性はバグっていないだろうか。今の自分の現状は、数年前に言及された倍速聴きなんて問題にならないぐらいだ。音楽というギフトを乗数的な波状攻撃のように浴びてしまっている。
今回はそんな微妙な感情を記すべく、今聴いているVTuberの音楽をまとめてみた。とにかく聴きまくっている、大好きな曲ばかりだ。
そして、Vの音楽のあとには、彼らの普段の様子も貼り付けた。
このトークパートこそが、私にとってVTuberの音楽(引いてはバーチャル世界の音楽)を無秩序に受け入れ、同時に自分自身の音楽感性を冷静にさせてくれる側面をもつからだ。
私は、この音楽を無秩序に浴びまくっている自らの状況に、ある部分でとても戸惑っている。
ローレン・イロアス-神っぽいな、悪魔の踊り方
にじさんじ所属のローレン・イロアスが歌う曲は、どんな曲でも「ローレン・イロアス」になる。
そしてそれ以上に、原曲リスペクトを崩さぬまま、さらに聴きごたえのある曲にしてしまう魔性の魅力も持ち合わせている。
このようなボカロ発の曲は、電子的なカオス表現がベースにあるので、そこにどのくらい「人間らしさ」「歌い手らしさ」を落とし込むかの比率が一番重要になってくると思う。かといって歌い込んでしまうと、原曲の(良い意味での)無機質さを損なってしまうし、逆に達観視して伽藍洞のように歌ってしまうと、その人が歌う理由は生まれない。
この“どこまでローレンとして歌うのか”という落とし込みに関して、ローレンは常に期待以上のものを見せてくれる。やりすぎず、でも絶対に不足しない。絶妙なラインを自然に歌いあげているのだ。これは後述するFPSゲームで積み重ねた、実は常に冷静で視野が広いこと(適度に適当とも言う)に影響しているのかもしれない。
選曲や曲の解釈を限界まで丁寧にしているのか。それとも素でこのレベルに仕上げてしまうのか。
実際のことは知る術もないけれど、デビューして2年で歌ってみた5曲という少なさも逆に好感がもてる理由の一つだ。頻度が少ない代わりに、どの曲もとにかく練度が高い。
このライブでの1番サビのガナリは、人生で一番心地よかったし同時にえぐい程アガった(2:08~)。喉を即座に開いているのでがなりが閉まらない。最高のがなりだ。
パンチラインしかないこの曲を(自分は)酔わずに、でも(聴き手を)酔わせる、絶妙な歌い方の加減には改めて驚かされた。
普段のローレンは音量注意(配信しすぎて声枯れ)。温度差で風邪ひく。
抜群のゲームセンスを持ちながら芸人枠でもあるローレン。
時々ノリによるお暴言もあるけれど、そういう自由なところも含めて私は好きだ。そしてそれ以上に、過去の色々を踏まえ、人に対して物凄く思慮深く裏回し的な役目を負うところもあり、それがこの人の魅力的な部分だと思っている。
ギャハハハ笑いで馬鹿騒ぎをしているようで、常にどこかで自分をコントロールしている雰囲気を感じると、なぜ彼の歌にこれ程魅了されているのかをまざまざと思い知らされるのだ。
夜王国-SNOBBISM、夜は仄か
同じくにじさんじ所属の、グウェル・オス・ガール(エルフ)、白雪巴(女王様)、不破湊(ホスト)による同期ユニット。
どの界隈でも“同期”というのは、それだけで神聖化されてしまうものだが(仲良くしていてほしいというリスナーの願望が根底にある)、この癖ツヨ大人グループにそれは通じない。
なんせ、集まったところでこのありさまである。
こんなに話が広がらず弾まない会話、大人になってから初めて聴いた。逆に心躍るわ。山もなけりゃオチもなく、配信でこれは放送事故レベル。そもそもこのお題で雑談しようというモチベーションの低さが素晴らしい。
普通は誰かが、もしくは誰もが、気をつかいながら会話をまわそうとするのが社会の常なのに、彼らは互いに興味がなく(?)その代わりまったく気もつかわないという、脳死トークを繰り広げており、それが最高に心地良いのだ。そのくせ、ほかの人とは普通にエンタメをし、トークも弾む(むしろトークをリードする側)のが最高に笑える。
ただ、たまたま同期だったというだけの関係。まさに私の求めていた【同期像】はこれだったのだ。
なのに、だ。
この三人、歌を歌わせるとバチくそにかっこいい。声の相性も嘘みたいに完璧。それをまざまざと見せつけられたのが、このライブだった(2:31:28~)。
いかにも、なボカロ曲の次に、ソリッドに響きわたるベース音。Vにあるまじき、めちゃくちゃクールなカバーになっている。(Eveさん神曲ありがとー!)
さらにおもしろいのが、不破湊は歌い手の一面もあるが、ほか二人はとくに歌に特化したメンバーではないことだ。
なのに、三人の声が合わさるとなぜか全員が輝き出すのが凄い。ソロパートも二人パートも、そして三人のユニゾンにもそれぞれの良さがあり、しかも互いに声を近づけようとする部分も垣間見える。
とくに、普段は自由人で掴みどころのない不破湊が、グウェルと巴さんの完璧な架け橋になっていて、声質・技術ともに貢献度が高いのがおもしろい。彼がオクターブ高く歌えることで、巴さんとのユニゾンが成立する効果も大きい。
また、全ての選曲・歌割りは巴さんが担当しているとのことなので(どれもすごく良い)、やっぱり互いへの理解はあるのかもしれない。
普段は慣れ合わない代わり、必要なときにだけパッと集まり、ビシっとキメていく夜王国。この三人のギャップに私は沼っている。
ちなみに、現在は周年義務コラボ(中身皆無)を繰り返していくうち、他の期よりもコラボ回数だけは多いという矛盾が生じ、一周まわって熱い同期になっているのも笑える。
大神ミオ-永遠の銀、夜明けのメロウ
普段は“ホロライブの母”と言われるほど、常識人で包容力のある安定さが魅力の大神ミオ(オオカミ・ミオ)。通称ミオしゃ。
大型企画にははずせいないメンバーとして計画的に準備する手際など、まさに縁の下の力持ち的な存在だ。ほかのメンバーを支えたりフォローしたりすることも多いし、それを嫌がってないようにも見える。MCや進行役もすごく多い。
でも、歌う曲はこうなわけ。
アニメの第二期(ここポイント)オープニング!?と思えるほどの、かっこよさ、切なさ、疾走感。
こういう曲って、歌詞や曲にリンクするような経験や感情が、ずっと心の底に渦巻いてないと歌えない曲だと私は思っている。きっと普段ニコニコで優しいツッコミのミオしゃも、当然“主人公”のスイッチがあって、でも色々なことを経てその熱さや痛みを俯瞰に見る技量もあって。だからこういう波乱万丈な曲も暑苦しい表現にならず、それでいて何かを訴えるように歌えるんじゃなかろうか。
決して声に特徴があるとかではないが、どんどん彼女の声の琴線に触れてみたくなる、とても魅力的な個性が滲み出る声のメンバー。
良質で難解な曲を淡々と歌えるスタミナもある。
ふだんのミオしゃ。繊細なメンバーの心に寄り添う姿はまさに「母」。
ROF-MAO-前進宣言、一撃
にじさんじ所属の、剣持刀也、加賀美ハヤト、不破湊、甲斐田晴(※歌い順)によるユニット。
比較的好き勝手がまかりとおる「にじさんじ」の中でも、さらに特攻番長的なユニット。VTuberにも関わらず、無人島に流されたり、農家暮らしを営んだり、某TOKI〇のような「フィジカル」で魅せるエンタメメンバーの集まりだ。
企画自体が「この4人なら何でもアリ」的なノリがあり、インドア=VTuberという世間的なイメージを根底から覆しにきているのもいい。
個人的なイメージも、全メンバーのパラメーターがバラエティー◎、個性◎、歌唱力◎で、V界の某グループになる…!?と、ちょっとワクワクしてしまうユニットなのだ。
普段の活動はこんな感じ。
とくにVTuber黎明期から活動している剣持刀也の、このユニットによって生まれたギャップの魅力には感慨深いものがある。
一見すると人に対し潔癖で、自分の哲学が強い「古のオタク像」をもつ彼だが、実は好奇心が強く他者を観察しながら理解しようとする、一周まわった「真のオタク像」を体現している人だということが伝わる。
普段から男性VTuberのアイドル化を危惧する剣持自身が、声を振り絞り絶叫して歌う姿は(上手い)、「ギャップ」や「矛盾」という言葉に収まる変化ではなく、オタク文化自体のさらなる可能性を感じられて感銘を受けた。
もちろんVTuberの綺麗どこが全員アイドル化する必要はまったくないし、それはそれで気持ち悪い。
けれど、常に社会的な常識を突き破るある意味でアンチな存在であってほしいと願ってしまうユニットなのだ。
ライブのために(この動画ではないですが)全員で一からバク転を習得する、ガチで体当たりなグループ…
秩序を自分らしく生きるための、無秩序世界
以前のブログにも書いたことがあったけど、私には世界の音楽を聴く理由というのがボンヤリとあって、「その文化や、その人そのものを知りたいから」という欲から、今でも雑食的に世界の音楽を聴いている。
これはVTuberの音楽にも当て嵌まっていて【音楽を聴く→ハマる→配信トークを聴く→ハマる→そのうえで音楽を聴く→さらにハマる】というループを繰り返している。
たぶん私は、Vtuberという【側】をかぶったキャラクターの音楽の奥の、またはその先の、リアルな感情の輪郭に触れることが好きなのだ。
確かに音楽そのものの質(声やミックス、アレンジの妙)は興味の入口にあるのだが、それとは関係のないVtuber個人の雰囲気や彼らへの共感性などで底上げされた関心が、さらにその人の音楽を輝かせると信じている。
アイドル活動に不服を漏らす者、とくに興味がない同期同士、暴言も吐くがハッと驚く優しい言葉も紡ぐ人、、、。
そんな型通りにいかない人間臭さというのはバーチャル世界では(まだギリ)許されており、私には居心地がいいものとなっているのかもしれない。
かといって“中の人”に興味があるかと問われたら、必ずしもそうではない。
ややこしいが、ローレンの中の人の容姿や生活感などに関心はないが、ローレンという人の思考や、ものの見方などには興味がある、と言えばいいだろうか。(例えば、グッズが出ても直筆サインなど、この世界に実在するという点にはあまり興味がない。)
このへんの微妙な線引きは自分でも上手く説明できない。ただ、結局は音楽を入口に、誰かの感性を見せてもらうことに果てしない興味があることに変わりはないらしい。それはリアルでもバーチャルでもおんなじということだ。
この音楽に対してもっている「軸」のようなものが、現在のバーチャルエンタメの波状攻撃から時に私を守り、ときに冷静にさせてくれている。、未だかつてない、死ぬほど自由な音楽に酔い狂いそうになる私へ、それはこう告げるのだ。
“音の熱だけに飲まれるな、その先にある人の感情を聴け”、と。
同時に「バーチャルな世界とリアルな世界の感情の折り合い」というものに関しても触れておきたい。
今回バーチャル世界にハマり身に染みたことの一つに、推し活にはかなりの時間が削られ、非常にお金もかかる、という事実がある。
こう言っては身も蓋もないが、この構造はガチでホストやキャバ嬢へのお貢ぎ物と変わらないだろう。日々、新しいグッズが万単位の額で組まれ、スパチャの数字が配信画面を飛び交う、、、これだけ書くと、確かに狂乱と言われても仕方ない。
リスナーは夢や希望、キラキラやキュンキュンを享受する代わりに、リアルで最も必要な物の一つである【カネ】、そして一生戻ってこない【時間】を捧げることになる。カネもそうとうだが、私はそれ以上に時間の対価が大きいと思う。
今しか訪れない瞬間を、私たちは画面の前に費やす。V側には能動的なアクションとして経験値が付与される時間だが、リスナー側の受動的に感情を消費する時間は、経験値として測定できる価値に、今はまだない。
当然すぎることなのだが、けっこうこの問題は身近に存在するような気がしている。このカルチャーを若いときから享受していたら、そりゃいろんな問題も生まれるだろう、、、と、これまた無限に考えてしまったりする。
問題だらけのリアルで、自分らしく生きるためのバーチャル。
本来そうあってほしいものだが、リアルな誰かが運営している以上、バーチャルはどこかでリアルとガッチリ結び付いていて、何人たりともそこから目をそらすことは出来ないのだ。
だからだろうか。
いつものバカ笑いのなか、パッと飛んできたローレンの言葉で(1:26~)彼の思考に興味をもった私は(絶対ちょけて終わる部分も含めて)、きっとこれからもローレンの歌を聴いていくんだと思った。
“本当に君のためになることは、君自身にしか出来ない”
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VTuberの音楽に関する記事はこちら
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ここまでお読みいただきありがとうございました!
今後も色々な音楽を聞いてブログに書いていきたいと思いますので、お時間があるときにおつきあい頂けたら嬉しいです!
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