先日ハロー!プロダクション所属の歌手、高木紗友希さんの同棲報道による脱退発表を受け、同事務所所属モーニング娘'21の小田さくらさんの書いたブログを読む機会がありました。
こちらで改めて共感したことがあり、今回は“アイドル”とよばれる人たちについて、女性である筆者がこれまで思ってきたことを書いていきたいと思います。
アイドルの恋愛を契機としたニュースは何度も何度も何度も何度も
とりあげられてきているので、書きたいのは報道の良し悪しや「契約違反」などのビジネス論ではありません。
今回は伝統文化のように存在感を増した日本特有の“アイドル文化”の在り方について焦点をあてていきたいと思います。
性への憧れはパフォーマーとして必要なのものなのか。
そしてそれが希少文化である場合、その文化は守られるべきか。
筆者はただのいちリスナーではありますが、日本だけでなく世界の音楽を聴くことをライフワークにしてきたから感じたことを率直に、
そして国内海外問わずパフォーマーへのリスペクトをもってまとめていけたらと思います。
同性異性での見え方の違いもあるかと思い、今回は「パフォーマー」と「聞き手」のみの構図でお話していきます。
通常どおり音楽もご紹介していますので、よかったらおつきあいください。
いつもより文章が攻めていること、筆者自身が重々承知しています。いろんな考え方のやつがいるんだな…とやんわり読んで頂ければ幸いです。
最初のパートが高木紗友希、次パートが小田さくら。歌唱力に定評のあるハロプロの歴史のなかでも近年とくに注目されていた実力者です。
私がアイドルという言葉を使わなくなったわけ
ブログタイトルで誤解されそうですが、筆者はユニットグループ(とくにガールズグループ)が大好きな人間です。
海外も国内も気になったグループは追いかけていますし、実際にライブやファンミーティングに参加することもよくあります。
けれど普段の会話やこうしたブログなどの場で、彼/彼女たちを話題にするとき努めて気を付けていることがあります。
それはなるべく“アイドル”という言葉を使わないこと。
※今回は日本のアイドル要素をもった表現についてはあえて使用しています。
その理由は
“idol(アイドル)“
という英語の語源が
ラテン語の “idola(イドラ)”
からきていると知ったからでした。
idola とは「偶像」「幻影」を意味し、英語の idole の意味の一つには「崇拝される人や物」というものがあります。
個人的に昔から“崇拝”や“陶酔”“熱狂”という言葉には少し抵抗があり、普段からあまり使わないようにしていました(オタク文化やファンイベントなど、冗談やノリで使いたくなるケースはたくさんあるんですけどね…)。
なんとなく、その言葉を使うことで自分自身が自由でいられなくなるような気がしたので。
それに加え語源が「偶像・幻影」だとは…。あまり積極的に使いたくないなぁと思ったのです。
この言葉を提唱したイギリスの哲学者フランシス・ベーコンも、これらが“人間が錯誤に陥りやすい要因”であると「イドラ論」で指摘しています。
もちろん日本のアイドルを指すものが独自の路線で変化しているのは理解していますし、呼び方に文句をつけたいわけではありません。
ただ“会いにいけるアイドル”が天下をとってだいぶ経ち、SNSなどで人と人との距離も近くなった昨今(コロナ禍以前)
この言葉を背景に活動をすること自体が、私には何ともチグハグな、しっくりこないことでもありました。
パフォーマンスを追求するか性への憧れを追求するか
いや極端だよ!どっちも大事だろ!
そんな声が聞こえてきそうですが、小田さんのブログにもある通り、日本ではアイドルたちが「女の子」ということを武器(逆もまた然り)に、
言い変えれば性への憧れを目的にエンタメ界で戦うという状況がこの十数年(…もっと?)ずっと続いていると私も感じます。
そして、この性への憧れこそが日本のアイドル文化特有の価値を形成したこと、
そしてそれが現在、時代的なジレンマを抱えている状況だということも日々実感しています。
性への憧れは文化になる?
性への憧れ…乱暴に言ってしまえば
異性の魅力的な容姿や動作が見たい、聞きたい、ふれたいということ。
これを第一にするのであれば、現在の“アイドル文化”のまま何ら問題はありません。
“(ある程度の)清純さ”
“成長過程を楽しむ”
“恋愛ご法度”
などは、海外ではあまり見ない日本における独特な「アイドル文化」の特徴です。
もちろんこれらは全てのアイドルグループに該当するわけではありませんが
“トップ層”や“メジャーどころ”、いわゆるある程度の社会的責任が生まれたグループには、
さらに強固で特殊な「責任」が新たに課されているように思えます。
一方で思うこともあります。
私たちファン側の心情に
「○○の声だから聞きたい」
「あのパートは○○が歌うから成立する」
という感覚があるならば、
すでに私たちは「これまでのアイドル文化」を必要としていない、あるいはそれに馴染まない可能性があるということです。
供給してくれる一部(歌やダンス)に個性を求めるのであれば、
聞き手も彼ら特有の「個(プライベートや恋愛などにおける個性)」を尊重する必要があります。
そして今は、それを支持する声も少なくない時代のように思います。
「○○だから応援したい」(箱押しも含む)という気持ちは
きっと“アイドルファン”であれば多くの方がもっている感情です(かわいけりゃどこの誰でもいいという“アイドルファン”っているのかな…)。
だからこそもっと、キャラクター定着などの戦略とは別腹で
「個」を追求できる歌手やグループが増えていけばいい
と思ったりしています。
ガラパゴスなアイドル文化、守られるべき?
海外ではジェンダーフリーの理解がどんどん進んでいます。
それこそ前項の「性への憧れ」など議論の余地もないほど、
最近ではジェンダー自体が頼りない線引き(意識として性をもたない、あるいは模索中の“クィア”という人たちもいる)として捉えられているようです。
私は全部を世界基準にしたり、今言われているフェミニズムのすべてに賛同する必要はないと思っていますが
それ以前に、そしてそれ以上に
シンプルに人間の権利は平等であるべき
だと思っています(男性側のレッテルももっと払拭されるべきだし、男の体だから受けてきた日常の屈辱なども知られるべき)。
なので結果的にジェンダーフリーの動きは賛成を通りこして「当然」という考えです。
けれど、ここで一つの矛盾が。
文化の形として残る「ジェンダーライン」はどう受けとめたらいいのでしょうか。
日本には女人禁制のエンタメ文化があります。
歌舞伎や相撲など、メジャーでしかも人気の高い(=需要がある)エンタメが、伝統文化として“尊いもの”とされています。
基本的に「文化は守られるべき」
というスタンスをとってきた筆者ですが、この矛盾には頭を抱えてしまいました。
ジェンダーの違いが文化だとは思いませんが、過去にはその“縛り”がある状態で、何かのパフォーマンスが誰かを励まし輝く瞬間が存在したわけです(女性が参入していたら…という検証のしようがないので)。
であるならば、希少価値の高い日本の「アイドル文化」も、未来視点から見れば継続し守られるべき文化なのでしょうか。
私がしばらく考えて出した答えは、やはり歴史にありました。
過去の文化は変えようもないし、当時生きていた人たちのものでもあるので今の私たちには変える権利もありません。
しかしそれは言い変えれば、現在~未来の文化は私たちの手でいくらでもその“基準”を変えていけるし
そしてそもそも発信者である演者側の選択をいったん受け入れなければ、真の文化は始まりようもないのです。
今ジェンダーについて意見が交わされ、演者側が「個」を尊重することを求めているならば
それが希少文化であろうが何だろうが、変化していくことが自然なんだと思います。
変化後のニーズや「売れた売れない」問題もありますが、
だからこそぜひ大規模な運営側に新しい決断をしてもらい、何らかのロールモデルが展開されればな~と思ってしまいます(今は男性グループの男性ファンも、その逆もかなり望めますしね)。
これまでのアイドル文化を否定したいわけではなく
演者側に選択権のあるグループが飛躍しやすいマーケットも作るべき
なのではというのが個人的な思いです。
ぐっとくる曲・はっとした曲
自己表現が一部統制されている中でも、彼ら/彼女たちは歌と踊り、ときにはその振る舞いで、懸命に自分たちを表現してきました。
ここでは数あるガールズグループの中から、ジェンダーのもつ価値観を超え、一つのパフォーマンスグループとして筆者が“ぐっとくる曲・はっとした曲”をまとめてみました。
アンジュルム『泣けないぜ・・・共感詐欺』(ANGERME[I Can't Cry… The Fraud of Empathy])(Promotion Edit)
ジェンダーどころかそもそもの同調圧力にノーを突きつけている曲で、私は最初から最後まですべての歌詞に共感してしまいました(同調圧力じゃありません 笑)。
ハロプロ特有のダサい中毒性も少なく、一般的に聞きやすい曲だと思います。
BABYMETAL - Ijime,Dame,Zettai - Live at Sonisphere 2014,UK (OFFICIAL)
この曲、海外ではあまりフューチャーされてない気もするけど(reaction videoも少ない…)メッセージはジェンダーレスだし身近な問題について歌っているので、よけいに彼女たちの個のパワーが際立ちます。
実は“リスナーに対して繊細な音楽ジャンルのメタル”で、この曲を披露したのはとても意義のあることだし、世界中のファンがこの歌詞を理解してくれていたらいいなぁと思います。
avex所属の本格派ダンスボーカルグループ。
この曲の何がお気に入りかというと、サウンドにもPVにも歪な美しさがあるということ。
だんだんと歯車が狂っていくような…真綿で首が絞められていくような…
そんな人間が生理的に嫌悪する“予兆”をこの美しい曲のなかで表現してくれたというのがポイント高かったです。
生きていれば希望だけじゃやっていけない日もあるのが普通ですよね。それも受けいれてくれるからこそのエンタメっていうのが筆者の信条です(笑)。
グループではないけどこれははずせなかった…。
クイーン・オブ・アイドル(あえてアイドルと表現します)と言っても過言ではない松田聖子ですが
もうアイドルの次元で語れなくなったのは、当時からこの手のメッセージソングも見事に歌いあげていたからでしょう(聖子ちゃんが歌うから聞き耳をたて地球や人を大事にしようと思える影響力がある)。
1986年リリースの曲ですが、現在のSDGsにも通じるエッセンスが多く詰まっていることにも唸ってしまいます。
Calm Down=落ちつこう精神でやっていきたい
本来、メジャーとマイノリティー間の「距離」を埋めるために始まったジェンダーへの問題提起ですが
場合によっては世代間や置かれた立場で争いの火種になってしまうこともここ数年で実感しました。
つい先日もMr.ポテトヘッドがMr.の敬称をとる…と話題になっていましたが、数日前にこんな記事が。
ここまで熱く語っておいてビジネスな説教でオチをつけるのかと御叱りを受けそうですが、これはある意味とてもいい手段です。
抽象的なテーマにとって数字は特効薬。
はっきりとした数字が「損得」として自分たちの身に降りかかってきますから潔いものです。
このやり方が美しいとは思わないし、前述のとおり私はこれからも「ジェンダーフリー」を後押ししたいと考えていますが、そう思うからこそ冷静でいたいとも思います。
Taylor Swift - You Need To Calm Down
さて、ここでタイトルに戻るわけですが
アイドル文化における個人への崇拝(こうあってほしいという願望)より
相手は同じ人間と思って過ちや醜聞、恋愛うんぬんも受け止めるのが、人として自然な形
なのではないでしょうか。
その人個人の生き様も長い目でゆ~っくり応援していきたい。
かわりに受け手側はもっと貪欲に、エンタメとして見せてもらえるものにこだわりをもっていいと思う。
回りくどい内容になってしまいましたが、表現者がもっと自由に、例え過ちをおかしてしまったとしても
「やっちまったな…だが待ってるぜ」
と思えるようなファン作りを演者や運営側が試してみてもいいんじゃないか
ということを書きたかったのでした。
ここまで読んで頂きありがとうございました。