最近、気持ちが動いてないな…
体は疲れていないのに、心も疲れていないはずなのに、
なんだか気持ちに芯が通っていないような気がする。
そんなふうに気持ちが渇いたと思ったとき、
ぜひ聞いて頂きたい音楽があります。
それが、合唱曲です。
学生の頃に合唱コンクールなどで歌った『怪獣のバラード』や『Lets' Serch For Tommorow』とはまた違う、
大人になって聞く、合唱の新たな表情を知って頂ければと思います。
おすすめの合唱曲
『どちりなきりしたん Ⅳ』…隠れキリシタンが見つめる世界
※筆者は無宗教者です
作曲:千原英喜
2002年に作られた『どちりなきりしたん 第四楽章』より。
この曲は同氏の『おらしょ――カクレキシシタン3つの歌』
の姉妹作として発表されました。
タイトルから分かるように、日本の安土桃山時代~江戸時代にかけて禁教とされたキリスト教の隠れキリシタンについて歌われた曲です。
“どちりなきりしたん”とは、この時代に日本で行われたキリシタン教育に使われた教理本の名前。
曲の歌詞にはこの教理本やその他の典礼文などのテキストが用いられています。
冒頭で歌われる合唱パートは『こんてむつすむん地』の一節。
『こんてむつすむん地』とは原書『キリストに倣いて』の邦訳版で、1610年に信者向けに一部漢字や仮名を用いて出版されました。
現在『こんてむつすむん地』は、国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧可能となっています。
雰囲気を感じるだけでも是非ご覧ください。
Qui sequitur me,non ambulat in tenebris,sed habebit lumen vitae.
我を慕うものは闇を行かず、ただ命の光りを持つべし『どちりなきりしたん Ⅳ』千原英喜/曲 冒頭歌詞より一部抜粋し引用
冒頭のソロはヨハネの福音書8章12節、次に『こんてむつすむん地』の一節が続きます。
前半の短調+ラテン語の印象もあり「The 海外の宗教曲」という感じもしますが、私はこの曲を聴くたびに、
土間の土煙や井草の香り、そこに控えめに置かれたロザリオという「The 日本」な情景も思い浮かびます。
この和と洋の狭間から当時のキリスト信者の姿を思い起こさせるのが、作曲者千原氏の凄いところ。
日本的であり中世ヨーロッパ的であり…しかもそれを声のみで表現するなんて初めて聴いたときは衝撃でした。
この手腕、大きな声では言えませんが私は密かに日本のハンス・ジマーだと思ってます(笑)
重厚なサウンドと、今にも一筋の光が目の前に差すような壮大な曲の展開など、歌い手側からも人気の高い一曲。
また、キリシタンにとって暗雲とした時代の悲壮感もありながら「信じることは祝福されること」と、ただひたすらにまっすぐ歌われる後半のパートにも注目です。
『鴎』…つひに自由は彼らのものだ
この曲、いつ聞いても涙をこらえられない。
三好達治氏は1900年に大阪で生まれ、戦前~戦中~戦後を生きた詩人、翻訳家、及び文芸評論家です。
『鴎』(かもめ)は、戦後まもない1946年に発表され、第二次世界大戦中に亡くなった若者たちへの鎮魂歌として書かれています。
以下に、個人的に胸を打たれた歌詞を抜粋しました。
つひに自由は彼らのものだ
彼ら空で恋をして
雲を彼らの臥所とする
つひに自由は彼らのものだ
ー略ー
つひに自由は彼らのものだ
彼ら自身が彼らの故郷
彼ら自身が彼らの墳墓
つひに自由は彼らのものだ
つひに自由は彼らのものだ
ひとつの星をすみかとし
ひとつの言葉でことたりる
つひに自由は彼らのものだ
つひに自由は彼らのものだ
朝焼けを朝(あした)の歌とし
夕焼けを夕べの歌とす
つひに自由は彼らのものだ
『鴎』三好達治 詩 より一部抜粋し引用
冒頭の「空で恋をして」の優しい眼差しにぐっと心を掴まれ、
「彼ら自身が彼らの故郷」「彼ら自身が彼らの墳墓」では、心の拠り所も自身の生死も己で決められなかった、当時の若者たちに思いを馳せます。
また「ひとつの星をすみかとし」「ひとつの言葉でことたりる」には、
世界は一つであるべきだというチャップリンの世界市民的な思想も反映されていて、その健気さや眩しさも含めて、とても染みわたる部分。
一見当然のように思える「朝焼けを朝(あした)の歌とし」「夕焼けを夕べの歌とす」という言葉にも、
朝を朝だと、夜を夜なのだと、深呼吸してしっかりと捉えることのできない緊迫した当時の「時の硬さ・暗さ」を想像してしまい、
その場所から自身の命をもって解放されたのではないかと、気づいた時には涙でボロボロでした。
三好氏は戦中に戦争詩も多く書いています。
けれどその内容は国家主義的なものではなく、亡くなった兵士らへの敬意と追悼をうたったものだと言われています。
例え戦争詩だったとして、当時の時代背景、そして三好氏の胸の内は想像することしかできません。
ただ、この『鴎』を聞いて私が思うことは、
この曲が若者への鎮魂曲だということと同時に、三好氏のどうにもすることの出来なかった償いの念をあらわした曲なのではないかということです。
そしてそれは、時を超え、この三好氏の詩に曲をあてた現代の作曲家 木下牧子氏の思いも宿っているのかもしれません。
普段はファンタジー(時にダークファンタジー)な曲を得意とする木下牧子氏ですが、
この曲ではこんなにもまっすぐに、こんなにも温かな熱情をもって、三好氏の切なる願いを尊い祈りに昇華しています。
日本だけではなく世界中に、終ぞ自由を掴むことなく生を終え、
その思想や進みたかった未来を強制的に捻じ曲げられた少年少女がいる。
そのことに、私はいつも言語化できない悲しさ、やるせなさを感じます。
そしてこの曲を聴くたびに、
そんな、言葉にならないもどかしい感情こそを大切にしてね、
形ある耳障りのいい言葉に惑わされてその感覚を離したりしないでね、
と、誰かに言われているような気がしてならないのです。
合唱曲、もっと愛されてほしいな
合唱曲、とくに日本の合唱曲は「大人から子どもに書いたもの」がほとんどです。
大人の「独りよがりセンサー」には厳しめの私でしたが(笑)
自分が学生の頃から、これらの合唱曲やその歌詞にセンサーが反応することはありませんでした。
それはきっと、その歌詞や曲が自分たちと同じように、同じ場所で、
ずっと一緒に悩んでくれていたから。
悩みながら、そしてそれが本当に正しいのかどうか狼狽えながら、
それでも私たちに何かを強く伝えたいという
そんな熱を自然と感じたからです。
大人になって初めて分かる世界の矛盾や過酷さ、
人々が闘ってきた歴史、失敗、落ち度、責任、
そして、
どんな時でも支え合う人々の温かさや健気さ……
そんな、複雑でまっすぐな感情を、
合唱曲に携わった大人たちは、子どもたちに包み隠さず語りかけます。
そして、子どもたちはきっと全ては受けとれない。
自分が受けとれるところだけ、気持ちが動いたところだけ自分なりに受けとる。
それでも、いつか彼らが大人になったとき、
自分が受けとった分に、自分の経験をプラスしてそれをまた伝えていく。
上手く言えないんですが、私この循環がめちゃくちゃ好きなんです…。
どちらにもはにかみがあって、愛らしい行為だなと思ってしまう。
合唱曲、まじでいい曲たくさんあります。
こちらではたった二曲の紹介でしたが、色んなジャンルを聞いている方でもこの唯一無二の音楽にはきっと唸らされるはず。
今回のようなパッション面はもちろん、声のみで数分間一つの世界観を構築するという、テクニカルな音楽構造もそうとうなもの。
合唱って、学生の合唱コンクールで一区切りついて、あとはママさんコーラスとか、
何となく俗で真面目で面白味のない音楽のように思われているような気がするんだけど、もっともっとセンス面でも評価されてもいいんじゃないかと思う。
そして、もっともっといろんな方に愛されてほしいな…!
▶こちらでも合唱関連の記事を書いてます♡
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ここまでお読みいただきありがとうございました!
今後も色々な音楽を聞いてブログに書いていきたいと思いますので、お時間があるときにおつきあい頂けたら嬉しいです!
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