アメリカが、世界が咆哮している。
白人警察による黒人男性ジョー・フロイド氏殺人を発端とした大規模なデモ。
いまアメリカは、黒人コミュニティーの社会的権利の改善を求め、再び動きだしている。
このデモは、わたしにとってアメリカの現状だけでなく、自分自身のことを振りかえる機会にもなった。
稚拙ながら、今回は音楽ブログ的な視点も交え、これらのデモについて思ったことを書いていきたい。
内容は慎重に書いていますが、しがない個人ブログです。あしからず。
- なぜアーティストたちは率先して行動しているのか
- アーティスト「連帯」の歴史
- The Show Must Be Paused はやるべきだったか
- 「デモに賛成する」とたった一言書くまでの葛藤
- 世界市民でいたい
なぜアーティストたちは率先して行動しているのか
アメリカの音楽業界は早い段階でこの事件に反応した。
レディ・ガガ、アリアナ・グランデ、テイラー・スウィフト、リアーナ、ビリー・アイリッシュなど、名だたるトップアーティストたちが黒人コミュニティーへの強い支持を表明。なかには自らデモに参加している人も少なくない。
わたしの好きなアーティストも、SNSを見たらほとんどが支持を表明。
身近なアーティストの大半が連日デモについて投稿しているのを見ると、テレビのなかの映像も一気に熱を帯びてこちらへ伝わってきた。
ではなぜ、アーティストたちは早くに行動を起こしたのだろう。
それは、彼らが携わる「音楽」の歴史にある。
彼らは、自分たちの音楽がどれだけ黒人文化から恩恵を受けてきたかを理解しているのだ。
ジャズ・ブルース、ヒップホップ……黒人がはじめた音楽が今日の音楽にもたらした影響は絶大。もはやそれに影響されていないものを見つける方が難しい。
これは日本音楽も例外ではなく、日ごろ聞いているポップスやロックなども、辿っていけば彼らの音楽へとたどりつく。
何より、音楽文化において(ほかの芸術・スポーツ関連でも同様)ブラック・コミュニティー、または他者を差別すること自体が、アーティストとして自身のアイデンティティーを否定するものになる。
彼らには他者がいることが当たり前だ。他者がいなければ自分たちの音楽は生まれない。
過去にも、アーティストたちは数多くの不条理に声をあげてきた。その多くがスピーディーで力強く、社会現象化し後世に語りつがれている。
アーティスト「連帯」の歴史
前述したように、これまでもプロテストソングにはじまり、チャリティーフェスなどの催しを通して、アーティストたちは世界に連帯を訴えかけてきた。
1969年のウッドストックは伝説だが、半世紀たった今でもその音楽の力はまったく衰えていない。
以下、その歴史のごく一部だけをあげてみた。
What's Going On…Marvin Gaye マーヴィン・ゲイ ベトナム戦争へのプロテスト・ソング
説明不要の名曲。1971年リリース。
弟がベトナム戦争に出征し、その話をもとに制作された。
同タイトルのアルバムは、戦争だけでなく警察の横暴や貧困、ドラッグ問題についても果敢にとりあげ、アルバム全体がコンセプト・アルバムのようになっている。
その後、数多くのアーティストがカバーし反戦の意志も受け継がれている。
Power…ノー・ニュークス 反核を訴えたアーティストたち
スリーマイル島の原発事故を発端とした、反核を訴える大規模フェス。1979年。
ジャクソン・ブラウン、ジョン・ホール、ボニー・レイットらが主導。
結果、ドゥービー・ブラザーズ、ブルース・スプリングスティーン、カーリー・サイモン、ライ・クーダーなど、名だたるアーティストが賛同することになった。
なんど聞いても目頭が熱くなる良曲。
We Are the World…音楽ジャンルの垣根を越えたビッグ・チャリティー・ ソング
音楽界の「連帯」を示す代名詞のような曲。何度見ても、これだけのアーテイストが一同に集まったことには驚いてしまう。
2010年、ハイチ地震の際に新たなメンバーでレコーディング。トップバッターがまだ幼いジャスティン・ビーバーというのは感慨深い。
企画者の一人、ライオネル・リッチーは、今回の危機にも新たな録音を考えているという。それが現実になった場合、マイケル・ジャクソンは、三度わたしたちを癒してくれることになる。
"Hands" …オーランド銃撃事件哀悼とレインボー・カラーへの希望を歌う
2016年。オーランド銃撃事件の犠牲者への追悼、そしてヘイトクライムへのプロテストソングとして発表。襲撃されたナイトクラブは同性愛者が集うことで有名だった。
――100万の手が壁をつくるなら 100万の手がその壁をこわす
これらの歌詞も素晴らしく、レインボーカラーがより美しく見える。
ブリトニー・スピアーズ、グウェン・ステファニー、セレーナ・ゴメス、アダム・ランバートなどが参加。映像にはペンタトニックスのミッチやスコットの姿も。
Where Is The Love (One Love Manchester)…アリアナ主催のワン・ラブ・マンチェスター
2017年。マンチェスター爆破事件を受け犠牲者への哀悼とともに「テロに屈しない」という意志のもとアーティストたちが参加。
アリアナ・グランデのコンサートにて事件が起こったが、そのアリアナが座長を務め、今を代表するアーティストを幅広く終結させた。近年で最も大きなチャリティーコンサートの一つ。
個人的には事件当日からほとんど日をかけず、これだけのコンサートを開催したことに心の底から感動した。
中盤の「おれたちは絶対バラバラにはならない!」という Will.I.Am の訴えも胸を打つ。
さて、ここで気づくことがある。
それぞれ時や目的は違えど、訴えの共通点は「人権」だ。アーティストたちはどの時代も、わたしたち「人」のために立ち上がってきた。
そして今、それと同様に大切なことは「憎悪を連鎖させない」ということ。これは争いに対する永遠の課題であり、わたしたち一人一人が胸にとどめていかなければ実現しないことでもある。
今回のデモにもアーティストたちは平和的なデモを訴えている。
The Show Must Be Paused はやるべきだったか
The Show Must Go On (ショーは続けなければならない)にかけ、The Show Must Be Paused(ショーをとめなければならない)という、一時的な音楽ストも起こった。
音楽界が黒人音楽の恩恵をどれだけ受けているかを考える機会に、と提案。提案者はアトランティック・レコーズの取締役ブリアナ・アギェマンと、元アトランティック役員のジャミラ・トーマスで2人とも黒人女性だ。
6月2日、彼らは音楽業務をすべてストップしたが、これに賛同した別の企業ではこの間に新作をリリースしないというストライキも起きた。
だが、これについては少し疑問だ。
もちろん、考えることは必要である。このことにじっくり向き合う時間を設けることは大切だし、黒人コミュニティーへの焦点もずらさずにいるべきだ。
ただ、音楽をとめる以外にも方法はあったのではないか。ブラック・ミュージックが尊いものであるように、ほかの曲も同じように尊い。
しかし同時に、そこにはわたしたちでは計り知れない意図があったのだとも思う。
ビリー・アイリッシュの言葉を借りれば、まずもって権利を与えられている「白人音楽」という考え方もあるのだろう。文化である音楽を一時停止してでも、突き詰めるべきことだったのだ。
ただ、わたしは願ってしまった。
こんなときこそ歌がほしい、歌ってほしい。とめることではなく続けることで、わたしたちに希望をみせてくれないか、と。
この気持ちは、やはりまだ現状の重みを理解できていないあらわれなのかもしれない。
「デモに賛成する」とたった一言書くまでの葛藤
今回のデモは大きなニュースであると同時に、内容がとても繊細なので、わたしはこのブログを書くにあたり自分の気持ちを整理する必要があった。
海を隔て、日ごろから人種差別などを意識しない日本人のわたしが、どこまでこの問題に触れていいものなのか…。
こう考え出すと色々な気持ちがせめぎあい、わざわざ書かなくても「思っていれば」いいか…と考えてしまったこともある。
だが、書くことに決めた。ここからは、そんな個人的葛藤を記してみる。
中立は善か、それとも悪か?
そもそもアメリカで暮らし、これらの問題を肌で感じていない限り「中立的立場でものを見よう」と思うのは仕方ないように思う。とくに日本はこのやり方が得意だ。
しかし、今回は少し勝手が違う。
社会構造自体が差別ありきだったことが表面化した今、中立的な視線を保つためにこそ、明確に立場を示さなければいけないと感じた。まさに「沈黙を貫くことは中立ではない」。
改めて、わたしは今回のデモに賛成だ。
ただ、そこには冷静さも必要だとも思う。水をさすようだが、どこか冷めた考えも同時にもたなければならない。
ウィルスとのことも勿論だが、感情の熱がいき過ぎるとナショナリズムやポピュリズムはあっという間に生まれる。
もちろん、今回はそれと真逆の訴えをしているはずだが、正義とはあやふやな存在だ。いつのまにか純真な思いが歪な悪夢になってしまったことを、わたしたちは過去何度も学んできている。とくに大衆心理のなかでは、自分が天秤のどの位置にいるのか考えて行動すべきだろう。
アジア人のわたしが意見を言っていい?
恥ずかしいことだが、これにはかなり迷った。
当事者としての自覚が足りなかったとも言えるし、自覚があったとしても直接ひどい差別を受けたことがない、ある種のひけめから「遠慮」してしまったとも言える。
しかし、ふと今回は「人権」の問題だと思い直した。
遠慮していいはずがない、わたしは「人」なのだ。
黄色人種が、一人の人間としてこの問題に意見を発することは決して傲慢なことではない。経験がないことは分からないと認め、しかし距離があるからこそ分かることもきっとある。
もちろん、レイシストのなかではアジア蔑視もある。今回のウィルスでもそれが如実にあらわれたのは記憶に新しい。
だが、今回は黒人に焦点をあて続けるべきだと思う。
黒人は服装や趣味嗜好など完全に真人間という「恰好」をしていなければ、警察などに殺される可能性も高くなるという。また警察の捜査ミスで、予告なしに家宅侵入され射殺された人もいる。黒人は日ごろから命の危険を意識して生活しているのが現状なのだ。
そんなことが、もうずっと続いてきた。
今は2020年だ。キング牧師が演説した1963年からの月日を思えば、ほとんどの人類がこう思うだろう。まさしく Enough is Enough もうたくさんだ。
余談。少しでも近づけるように「○○人」と書いてきたが、この表現にはだいぶ違和感をもってきた。
白でも黒でも黄色でも、そのなかでルーツはみんなバラバラだし、育った国も違うし、個人の思いなんて天文学的数字をはるかに超えるレベルで違うのにやるせない…
いまデモをやる必要はあるのか?
そう思う人も多いだろう。世界共通の敵であるウィルスに立ち向かうのに、あんなに密集して大丈夫なのだろうか。
だが、こればかりは現地の、その社会に身をおいている者にしかわからないというのが素直な気持ちだ。
ウィルスとの危険を天秤にして考えた結果、参加している人だって多くいるだろう。「今でなければ」と現地の人の多くが思ったのだから、デモは起きている。
ふと思うことがあった。もしかしたらデモに参加している人たちは、ある意味とても冷静なのかもしれない、と。
これが本能のみで動く動物であれば、身の危険であるウィルスから身を守るため密集地帯には出向かないだろう。けれど、人間は動物ではない。複雑な考えや思いをもっているからこそ、デモの場へと足を向ける生き物なのではないか。
感染症という問題点もあり、これが正しい「抵抗の示し方」なのかは今もわからない。
何より、ずっと死にもの狂いで働いている医療関係者はどう思っているだろう。マスクや手袋をきちんとつけ、荒れた街を黙って粛々と清掃する人たち。彼らの気持ちはどこにあるだろう。
そう思うと同時に、デモに参加している人たちに賛同する自分もいる。しばらく考え、少し時が過ぎても、この矛盾からは未だに答えがでない。
自宅隔離中、ステイ・ホーム・ソングで連帯を示していたアーティストたち
世界市民でいたい
わたしは小さい人間だ。
普段の生活でも保身とか人の顔色とか、すぐ窺ってしまう。いい大人なのに「嫌われる勇気」など一生もてそうにない。
けれど、そんな情けない小心者のくせに、チャップリン言うところの「世界市民」でありたい、と本気で思ってもいる。
これまで黒人文化にも白人文化にも黄色のアジア文化にも…みんなに育ててもらった。音楽で、映画で、小説で、スポーツで、ファッションで…
だから自分の気持ちを示すことぐらいは、と思い書いた。エモいとか酔ってるとか…あるかもしれないが、自分なりに落ちついて書いてみたつもりだ。
これからの世界がどうなるか…まったく分からないけれど、すべての人とその気持ちを尊重できる世界に、今より近づいていなければ。
テクノロジーの進化よりも、それが人間本来の「進化」であり「新しい世界」の一面であるべきだ、と強く思う。
ここまで駄文・長文におつきあい頂きありがとうございました。
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