※9月4日加筆修正してます
クリスティーナ・アギレラが歌う、実写映画『ムーラン』のテーマソングが発表された。
アニメ版テーマ曲の『リフレクション』を彷彿とさせる、繊細でのびやかな歌唱。
迷いながらも秘めたる闘志が見え隠れする、まさしくムーランにふさわしい楽曲だ。
ジミー・キンメルライブにてパフォーマンス。ムーランの世界をイメージした赤の衣装でテーマ曲を熱唱した。
また、アニメ版テーマ曲の『リフレクション』もニューバージョンとして再レコーディングしているという。
↓
8月28日に新バージョンがアップ
まーじーで、まだまだやらかしてるよこの人……(最高の賛辞です)
ラスト魂のロングトーン、はげるかと思った……。
「
また2曲のメドレーバージョンもアップされ両者の比較もおもしろく鑑賞できる。
今回は、筆者も大ファンのクリスティーナ・アギレラ、そして公開が待たれる実写映画『ムーラン』について、改めて思うことをありのままに書いていきたい。
好きが興じて長文・乱文になっていること、最初にご承知おきくださいませ。
アギレラとムーラン 二人が交差した名曲『リフレクション』
ディズニーファン、もしくはアギレラのファンのなかでは、約20年前にディズニーアニメ『ムーラン』の主題歌をアギレラが歌ったことは広く知られている。
アギレラはこの曲で本格的なデビューを果たしたわけだが、今思えばこれはなかなかに破格のデビューだった。
当時アギレラはミッキーマウス・クラブショーに出演し、ブリトニー・スピアーズ、ジャスティン・ティンバーレイク、ライアン・ゴスリンらとともに花の93年組と呼ばれていた。
おそらくはそのつながりでこの曲のお声がかかったはずだが、それでも「世界のディズニー映画」である。
当時の公開が近い年代のディズニー作品を見ても
・ターザン(1999年)フィル・コリンズ
といったように、主題歌(もしくは挿入歌)には名だたるアーティストが名を連ねている。
それが1998年のムーランにのみ、新人のアギレラでゴーサインが出たのだ。これはファンからしても、改めて問われれば少し浮いている印象さえあった。
だが、今ではわたしたちは知っている。
この曲を彼女が新人とは思えぬ歌唱力で歌い上げたこと。
その後、瞬く間にアメリカのポップ・アイコンとなり、新人賞を含む6度ものグラミー賞を受賞すること。
その比類なき声と素晴らしい表現力で、今も世界中にその歌声を届け続けていることを。
今、新人だった彼女が『ムーラン』を歌っていたことに、疑問をもつ人はいないだろう。
むしろ『ムーラン』こそ歌手「アギレラ」のはじまりであり、アギレラを語るうえでその存在が見え隠れする、彼女にとって大切なファクターにさえなったのだから。
なぜ闘うのか
月並みな表現だが、アギレラとムーランには強力な共通点が二つある。
それは両者とも「闘い」、そして「自分とは何なのか」という問いを絶えずもっていることだ。
劇中において、ムーランは男装をして父の代わりに戦場へと向かう。
そして、性差におけるフィジカル面の違いや、強大な敵、男と偽りながら大切なもののために選択した自身の決断と闘う。
アニメ版『闘志を燃やせ!』で、胸を熱くした少女も多いのではないだろうか。
闘志を燃やせ
ムーランが軍隊に入隊し、右往左往しながら徐々に力をつけていくというシーンでの挿入曲。名曲だらけのディズニーのなかでも、とくにわたしが好きな曲だ。(残念ながら実写版は歌い手のシャンがいないので、オマージュされるかどうかあやしいところ)
ここで歌詞に注目してもらいたい。繰り返し歌われる「Be a Man」だ。
男になれ―――
この歌詞は作中において痛烈な皮肉ともいえる。この舞台の主人公は女性だ。
男でなければ戦場で戦えないのか。
男でなければ大切なものを自らの力で守れないのか。
そんなステレオタイプな疑問を背景にしながらも、ラストにムーランはしなやかな成長を遂げる。
わたしは今でもこの曲を聞くと目頭が熱くなってしまう。
たとえ「男になれ!」が良い側面の意味があったとしても、二十年の時を経て尚、それは女性にとって性への挑戦に変わりないからだ。
もちろんアニメ当時から男女平等は教育にしっかり組み込まれていたし、確実に女性の思いは社会に反映されていたと思う。
けれど、やはり目にみえないしがらみは消えないもので、社会のなかで気づかぬうちに飲み込んでしまっている性差特有の不満というのは確実に存在した。(もちろん男性もそうだろう)
この曲は、その無意識のあきらめから目覚めることを強く聞き手に自覚させる。
その一方で、大切なのは権利を声高に叫ぶことではなく、自らの力を見失わないことだとも訴える。そこに男女の性差はない。
作中においてムーランは周囲からの同情ではなく、自らの力によって周囲を納得させ、大団円のラストへと向かう。
決められた性による抑圧された自己の目覚めこそ、ディズニーが『ムーラン』を制作した理由であり、「アジアの戦場」を舞台にした理由の一つだったのだろうとわたしは思う。
ちなみに、あまりムーランがディズニー・プリンセスだと知られていない節もあるが、実は女性の支持は未だに根強い。
ラプンツェルにもジャスミンにもアリエルにも、ディズニープリンセスにはそれぞれの「強さ」がある。
なかでもムーランのより具体的でより愚直、そして切羽詰まった「強さ」に憧れる女性が多いことは個人的にとても興味深い。
たとえ何かの後押しがなくとも、自らの運命を文字通り「自分で切り開く」。そんなストレートなメッセージに共感した少女たちがたくさんいるのだ。
さて。
一方でアギレラのファンは、しばしば彼女の代表曲から『ファイター』と呼ばれる。
この曲にもあらわれているように、彼女の人生は様々な闘いの連続だった。
父親からの虐待、デビュー後の偏見、ポップアイコンとしての葛藤、同世代アーティストとの終わらぬ比較、前夫との離婚。
なかでも強く印象に残っている逸話が、少女時代に彼女のあまりの歌唱力に疑問をもったスタッフが、彼女にのみマイクオフして歌わせたという話だ。
あとから聞けば羨ましい話のようにも聞こえるが、当時の少女からしてみれば「自分だけ実力を正当に評価されない世界」へのショックは相当なものだっただろう。
また、常に他者と比較され続けたことも彼女にとってはしんどい戦いだったと思う。
デビュー直後はブリトニーと、そして2010年代はレディ・ガガと。
方向性も表現者としてもまったく別の舞台にいるアーティストたちと比べられ、そのたびにセールスの勝敗をつつかれた。
アギレラの闘いの相手は、自分ではどうしようもない、そして大概目に見えないあやふやなものであり、彼女の圧倒的な歌唱力をもってしてもどうすることもできない類のものだった。
だが彼女には歌が、その声があった。
いかに難易度の高い曲でも、どんなに大きな舞台でも、アギレラならばという圧倒的な実力とカリスマ性を磨き、二十年間その実力からの名声に傷がつくことはなかった。
そして彼女の闘いの功績は、時に社会への普遍的なメッセージにも昇華された。
名曲「Beautiful」もその一つである。
セクシャル・マイノリティーなど、彼女は常に闘いのなかで「弱者」へと目を向け続けている。
とくにドラッグクイーンにはアギレラ好きも多い。
とくに女性への支持は顕著で、2018年に発表した新曲「Fall In Line」でもその姿勢はデビュー以来変わっていない。
打ちのめされても、強制されても、気持ちは決して屈しない―――
これはアギレラのキャリアにおいて一貫されているテーマであり、その強力なメッセージは今では彼女の代名詞にさえなった。
ここまで書いてきて改めて、当時ムーランのテーマ曲にアギレラをあてた担当者は、まるで未来を予見しているようにも思えてしまう。
わたしには、ムーランが闘いの果てに求めるものと、アギレラが歌う理由の先には、同じ景色が広がっているように思えてならないのだ。
低俗な表現しかできずお恥ずかしいかぎりだが、この二人の邂逅はまさしく「運命的」だ。
この物語が二十年の時を経て、世界に再び歌い継がれることが、いま有難くて仕方ない。
自分とは一体なにか
闘うことを選んだ彼女たちのもう一つの共通点が、自己との向き合い方だ。
しかもそれは、たえず揺れ動き、危うささえ感じる繊細な行為でもある。
アニメ『ムーラン』では冒頭に歌われる「Refretion」にてその心情がうつしだされていた。
化粧をし、おしとやかな作法を身に着け、嫁に出向くことが、女の幸せであり、家族への孝行――
それが「自分らしさ」ではないことなどわかっているが、その先をどうしたらいいのかが分からない。
水面に映し出されたふがいない己の姿に嘆きながらも、きっと未来は変わるはず、と健気に光を見出そうとする。
自分のなかの正しさと、社会に求められる正しさとの乖離に、彼女は苦悩するのである。
一方、今回の新曲『Loyal Brave True』にも同じような表現がある。
水のなかに己を見いだし、はたして自分が忠に勇に真に足る存在なのかを問いかける。
自分とは強い存在なのか、それとも弱い存在なのか―――
いったりきたりするような、危うくも静かな問いかけが、前作以上に色濃く反映されているのだ。
一方で、パワフルなイメージのあるアギレラにも、その迷いと強さについて触れた曲があるのでご紹介したい。
セカンドアルバム『Stripped』収録。
ポップ・アイコンから一転、攻撃的なサウンドで「いい子ちゃん」からのイメージ脱却をはかった、彼女のなかでも一番の転機となったアルバムである。
意外にもそのラストをしめくくるのがこの曲だった。
誰もいない、そんなときは
こころの声にしたがって
その声を信じたとき
自分の強さにきっと気づくわ (歌詞は意訳)
誰も理解者がいない、というのは単身(しかも身分を偽って)軍隊にはいったムーランにも通じるものがある。
常に自分がどうするべきかを自ら考え、すべての局面を自らの意志でのりきる力を身につけていく。
苛酷な歌詞をメロディーが優しく包み込むような曲構成にも近いものがあり、個人的にこの曲は「Refrection」と同じようなパワーをもった名曲だと思っている。
さらに、力強く芯のとおったアギレラの声が、この曲をより一層ひきたてているのは言うまでもない。
おそらく自分を自分として確立させるためには、脆く危なげだとしても、前を向き続けるちっぽけな勇気が必要なのだ。
自然に共鳴する歌声
今さらであるが、ムーランの曲はアジアの舞台を白人女性が歌っている。
これは一見、とてもチグハグな印象だ。
だが、ムーランとアギレラにいたってはそれがなぜかしっくりくる。それがなぜなのか最近になって自分なりの答えがでたので、それについても書いておこうと思う。
近年、アギレラは番組や企画ものとのタイアップの仕事がかなり増えてきた。
単純にキャリアにおいてそういう時期なのかもしれないが、そのなかで筆者が「おや?」と思った曲があった。
2013年、映画『ハンガーゲーム2』サウンドトラックに提供された「We Remain」である。
個人的に驚いたのはその大らかなサウンド構成だ。
実はアギレラ名義の曲でこの類の曲を聞く機会は少ない。
その理由は(アギレラに限ったことではないが)ポップシンガー、もしくはセールスを見込まれる人気アーティストには、ヒットチャートで目(耳?)を見張るような目新しさ、もしくはキャッチーさが求められるからだ。
と同時に、アーティスト自身も創造性を大切にしているので、万人に聞き心地のいい、自然界を想起させるのびやかなサウンドを手掛ける機会が少ないのだ。
だが、考えてみればアギレラの歌唱力は、この分野においてこそ圧倒的な力を発揮する。
深いブレスから紡がれるハイトーンやロングトーン。
自然界の繊細さ、そしてときには脅威ともなる暴力性を映し出す圧倒的な表現力。
豊かに広がるバックサンドは技術的なフェイク歌唱でごまかすことはできない。曲ごと牽引する力強い声量とそれをコントロールする歌唱力が必須なのだ。
これらはすでにアギレラに備わっているものであり、そのため彼女は歌い手として壮大な曲そのものの中心に立つことができる。
この自然に回帰できる表現力こそ、自然や「陰・陽」を重んじるアジアを舞台とするムーランの世界観に必要なものだったはずだ。
アギレラはその歌声でわたしたちをいとも簡単にそこへ誘う。
彼女が歌っているのは、人種の別や変化する社会秩序ではない。
普遍的な自然、そして同じくいつの世も変わることのない一人の女性の「思い」なのだ。
まとめ
アギレラが好きなわたしは、いつか(自己満足のために)彼女についての記事をブログに残したいとずっと思ってきた。
誰しもずっと聞き続ける音楽やアーティストがいると思うが、わたしにとってアギレラはそんな歌手の一人であり、それなりに思い入れも強い女性だ。
今回ムーランのテーマソング聞き、改めてアギレラが歌い続けてくれている奇跡と、自らの二十年に思いをはせずにはいられなくなり、思っていた形とは違ったがこうしてブログに残すことになった。
再び大好きな映画を大好きなアーティストで鑑賞できるという、小さいようで大きな巡りあわせ。
曲を聞きながら人知れず胸がじーんと熱くなってしまった。
これだから音楽好きはやめられない。
もしかしたら、今熱をあげているアーティストが二十年後、思いがけない形で再び胸を熱くさせてくれるかもしれないから。